もうひとつの、蜜白玉のひとりごと

些細な出来事と記憶の欠片

気がつけば秋

キンモクセイがほんのり香り、ヒガンバナがひょっこり顔を出していた。植物はすっかり秋をきめこんでいる。

おそろしいほどの大雨と洪水が関東から東北へと抜けて行った。堤防が決壊して濁流が家を押し流す様子は、あのときの津波の映像を思い出させる。まばたきを忘れ、息をつめて見入る。にわかには信じ難い。

その後は、明け方の震度5弱、阿蘇山の噴火と、自然の大きさと予測のつかなさを日々感じさせられる。地球に住まわせてもらっているのだから、というより、私たちもまたれっきとした自然の一部、構成員なのだから、今後何が起きても、甘んじて受け入れるよりないのだろう。できる限りの防災、自助共助はするけれど、どうしたって太刀打ちできないときもあるはずだ。たぶん、それは誰のせいでもない。

 

 

夏空が無理なら

これを書くのはひさしぶり。3年連用日記帳もかれこれ2週間くらいサボっている。こんなにためてしまっては、思い出しながら書くのにもひと苦労だ。昨年も8月下旬から9月に入る頃の日記帳は真っ白だ。なにか毎日気忙しくて振り返っている暇がないのか、それとも全体的に何もする気が起こらないのか。書かない理由はどっちなんだろう。だいたい同じような時期に同じようなことをしているのは、3年連用日記2年目の今年になって確信した。毎年、自分のすることはたいして変わらない。

日本の近海で発生した台風はすぐに東海地方に上陸して、ついでに秋雨前線もじゃんじゃん刺激して、台風からそこそこ離れた東京でも、すごい大雨が降り続いている。だいたい、台風が来るずっと前から長雨なのだ。

もう雨も飽きた。夏空が無理なら、さわやかな秋空でもいいよ。

病院からの帰り道、一瞬上がった雨の向こうに虹を見つけた。変な空。低いところには黄土色のもやもやした雨雲、その上にはくっきりした白い雲と薄青い空が透けている。下と上で風の速さが違う。

先月から20年ぶりにバレエを再開した。楽しくて仕方がなくて、誰かに言いたくてたまらないのだが、オタクすぎて申し訳ないので別ブログに書き散らしている。

aplomb.exblog.jp

夏景色

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去年の夏も同じような写真を撮っているのだった。広がる田んぼ、風に揺れる稲穂、遠くの山、足元の草の陰にはアマガエル。何も変わっていない。誰かにとってはもううんざりするほど見飽きた景色でも、私にとっては一年に一度しか見られない景色だ。きれー。カメラを手に周囲を散歩する。昼間、ものすごく暑いのは東京と同じなのに、風が違うのか、気分が違うのか、おもしろいことに不快さはほとんどない。ずっと外にいれば、それはそれで熱中症だろうけど。

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目を凝らしてアマガエルを探す。見えた!そっと手を伸ばすと、ぴょんと飛んでいく。行き先を手でふさぎながら、何度目かで困ったアマガエルが手に乗る。小さくて、ひんやりとつめたい。確かめたかったのはこの感触。数秒でまたぴょんとどこかへ行ってしまった。

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お義母さんとおしゃべりをした。遠くに住んでいることもあって、ふだんはそんなに話す機会もない。用もないのにわざわざ電話をして話すような仲でもない。午後、夫はソファでごろんと昼寝をしていて、親戚の家の人は出かけていて、お義母さんと私だけ、ぼんやりとテレビを見ていた。

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何の話をしたのだったか、膝が痛くて注射を打ちにいっている話やら、婦人会のバス旅行に行こうかどうしようか迷っている話やら。この辺まではよくわかって聞いていた。それが、ご近所の話になったらだんだんわからなくなってしまった。人物相関図が込み入っていて、頭の中にそれを描くのが追いつけないのだ。すごい。これを全部把握して生活しているのだ。当たり前か。まあでも、ご近所の話はわからないなりに楽しかったし、お義母さんが元気でよかった。

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またしてもドタバタ短時間の滞在で、親戚の貴重な夏休みの一日を削ってしまっただけのような気もする。東京へ戻る満席のこだまでこの日撮った写真を眺めながら、これもすっかり私の夏の景色になったなと思った。

 

 

梅雨雑記

はー!梅雨だね梅雨。押し寄せる湿気、広がる髪の毛、重たくむくむ脚。ヒレをつけたら泳げるんじゃないかってくらい、というのはリトル・フォレストにあったけど、今もまさにそれに近い感じ。

先々週あたりから髪はショートカットになっている。うしろ頭がもさもさして暑いので、うっかりその場の勢いで切ってしまった。いや、ショートも好きだからいいんだけどね、ひさびさだし。でもやっぱり、思った通り、男子受けは悪い(なんなんですかね、別にいまさら夫以外の誰彼に気に入られる必要もないのだけれど、まあ、世の中の生きやすさというか、息の吸いやすさというか、ほんのちょっとしたことです、ほんとに)。一方で、女子にはおおむね好評だから不思議。

退院後、腹に力を入れられず、ずっとほったらかしになっていた和室の押し入れの片づけと、机周りの整理と模様替えがやっとできた。気分はすっきり、部屋はややすっきり。でもまだまだ減らせるのだろうな。物を持ち込むのは簡単、捨てるのは大変。たぶん余計なものがいーーーっぱいある。そういう余計なものの集合が生活なのかもしれないけれど、そこはちょっと抗いたい。

毎日夫と半分個してキウイフルーツを食べている。以前はそんなに好きではなかったし、むしろ苦いな、くらいに思っていたのに、何年ぶりかで食べてみたらおいしかった。フルーツ売り場に行くとキウイも何やら高級そうなゴールド~、サンゴールド~とかいっぱい種類があるけれど、私が好きなのは昔からあるふつうの緑の。キウイは水溶性食物繊維と不溶性食物繊維のバランスがいいというのをテレビで見て、術後、数年間は腸閉塞にならないように気をつけよ、という医師からのお達しを受けてからというもの、お腹によさそうな物を探している。

先週は渋谷にいつものカレーを食べに行けたし、日々の家事もまあまあこなせるようになってきたし、そろそろ元気になってきたと思っていいだろうか、どうだろうか。直前の行動に一切関係なく、急にお腹の傷とその周辺がギリギリギリと、それこそ数週間前に逆行するかのように痛いことがあって、とにかく分かりにくい奴だよなおまえは!と2ヶ月たってもいまだに傾向がつかめない、これっていったいどういうことか。自分のイライラもさることながら、面倒な説明なしに、治ったよ、って心配してくれてる周りに早く言いたい。

あじさいがきれいだ。ひと雨ごとにその色の濃さを増していく様子を見る。今年は特にピンク色のあじさいに目がいく。土壌のリトマス試験紙(反対だっけ?)。

 

 

くまちゃん

今回の手術でお見舞いをいただいた方々へお返しをする。お見舞いのお返しは快気祝というやつだけれど、はっきり言ってまだまだ全然治ったって感じではないので、「快」だの「祝」だの印刷されたのしはつけなかった。その代わりに、お返しの品と一緒に手紙を書いたり、電話をしたり、会って話したりした。この方が自分の気持ちにしっくりくる。老人ホーム(他の呼称はないものか、施設ってのも変だし)で暮らしている祖母からも、おばを経由してお見舞いをもらった。こちらが祖母の身を案じることはあっても、まさか祖母から心配されるような事態になるとは思ってもみず、立場の逆転が情けなく、それでも祖母の気持ちが素直にうれしかったのもまた確か。

祖母へのお返しはいちばん迷った。祖母はだいぶ前から目が見えない。脚が不自由で歩けない。一日のほとんどをベッド上で過ごし、かろうじて食事の時間は車椅子で食堂へ連れ行かれる。認知症もある。おばによると、祖母の話は現実と想像と思い出がごちゃ混ぜだそうだ。喘息も高血圧も糖尿もある。それらの薬を飲んでいる副作用で全身がかゆい。それでかゆみ止めを飲んだり塗ったりしている。満身創痍だ。果たしてこの祖母に何を送ったらいいのか。何の考えも浮かばずおばに相談すると、身の回りのものは一通りそろっているし、こだわりが強いから、これは爪が引っ掛かるだのなんだの、難しいのよね、そういえばこの前、以前から家にあった犬のぬいぐるみを持ってきてくれって言われて、今はベッドの枕元に置いてときどき抱っこしたりしているのよ、と。

それ、1体増やしていいですか?

あら、そうお?いいの?おばが明るい返事をくれたので即決する。手触りのいいぬいぐるみなら当てがある。姪(祖母からみればひ孫)が持っている最高にふわふわのくまのぬいぐるみをすぐさまAmazonで注文した。まずはいったん自宅に届けてもらい、手触りを確かめ手紙を添えてラッピングしておばの家に送り、おばからホームに届けてもらった。週末、そのおばから電話があった。

もうこんなにかわいくてふわふわの、ありがとう。今おばあちゃんに代わりますね。祖母と電話で話すのは何年振りだろうか。

「もしもし?○○ちゃん?(私のこと) あらまあ、くまちゃんをありがとう。こんなにかわいいのをいただいてどうしたらいいのかしらね。○○ちゃんのはあるの?もらっちゃっていいの?寂しかったら送り返そうか?」

祖母としゃべっている私は何歳なのだろうか。私もおそろいのを持っていると言ってなだめる(実際持っている、小さいのだけど)。その後はいい声になっただの、旦那さんは風邪ひいてないか(あら、ちゃんとわかってる)だの、電話口の祖母は声に張りがあって、言葉もよどみなくすいすい出て、想像より元気で圧倒された。実は祖母がホームに入ってから一度も会いに行っていない。ちょうどその頃は父(祖母からみれば息子)の介護で精一杯で、父が亡くなってからは一人になった病気がちの母を見守り、うちの近所に引っ越しさせて、その空家を売ってと、ずっと難題続きだった。会いに行くと言ってなかなか果たせないことを詫びる私に、祖母は言う。

「来なくていいのよ。私は96歳ですけどね、まだここで生きてますから。そんなに慌てて来なくても大丈夫。ちゃんと休んでしっかり治しなさいね。人ごみには出ちゃだめよ。」

わからない様子をしながら、本当のところは全部わかっているんだ。私を励まそうとする祖母の殊勝な言葉に泣きそうになる。ホームは遠い。行ったら一日がかりだ。今は特に体力的につらい。あなたもおばあちゃんと同じ歳まで生きるのよ、とさらに追い討ちをかけられるように言われ、いったい何の話をしているのだか。それはどうだろうねえ、難しいかもねえ、と返しながら祖母の長い長い人生を思う。私の知っている話、知らない話。現実と想像と思い出がごちゃ混ぜでもいいから、今度ゆっくり聞かなくては。