もうひとつの、蜜白玉のひとりごと

些細な出来事と記憶の欠片

私のお腹には双子の筋腫ちゃん

読書会メンバーK氏からの紹介で川上未映子「きみは赤ちゃん」を読む。著者の妊娠から出産までの生活記録「出産編」と、子どもが1歳になるまでの記録「育児編」からなるエッセイだ。読書会ではいつも、課題本についてひととおり語りつくしたあと、休憩をはさんで最近読んだ本やおすすめの本について話すことにしている。彼が言うには、出産間近の奥さんのために自分にも何かできないかと思い、心構えというか予習というかそんなつもりで読んでみたら、ふだんめったに泣かない自分が感動して泣いて泣いて仕方なかった、と。

へえ、そんなものなのか、と思いひさしぶりの川上未映子。楽しく一気に読んだ。突っ走る語り口は変わらず、対象との距離がぐっと寄ったりすっと引いたり自由自在で、おかえり川上未映子、の気分。いえ、私が勝手にそっぽ向いてただけなんですけど。

川上未映子については、阿部和重との再婚以前はエッセイも小説も出るたびに読んでいたのだけれど、同時代の同世代というのはひどく共感もすれば、同じくらい嫌悪感も強く出るというもの。こちら側の個人的な事情や人間関係の問題などが勝手にオーバーラップして、なんだかすっかり読みたくなくなってしまったのだ。当時のひとりごとを読み返してみると、これ(ひとりごと2011年11月30日)とか、これ(ひとりごと2011年12月2日)とかがまさにそんな感じで、嫉妬に似たドロドロした感情をまったくコントロールできなかった。被害妄想も甚だしいかもしれないけれど、あの頃の暗く歪んだ気持ちでは何もどうにもできなかった。

今はどうなったかといえば、他人の妊娠・出産話にはある程度平らな気持ちで耳を傾けられるようになったし、子育て大変・子育て自慢に対しては、そうだよね、と親身になってあるいは興味を持って言えるようになった。これらは日々鍛えられている「おばさん井戸端会議」の延長にあって、さまざまな言葉を浴びせられる中で、無傷ではなかったけれど、この心境にたどり着けてよかったと思う。もし今でも私の言葉にとげがあるとすれば、そのときは会話の中に私への批判的態度を感じとっているからで、無意識のうちにやり返していると言ってもいい。

そうこうするうちに、私自身は子宮筋腫になっていた。今夏の健康診断の血液検査で貧血が判明し、子宮筋腫を疑われ、検査の結果2個あるよ、ということだった。今までも毎年きちんと検診を受けていたけれど、それでは発見されなかったのだ。少し驚いたが、どこかでやっぱり、という気持ちもした。ひどい生理痛にはそれなりの原因があったのだ。そしてこれはまったく非科学的だけれど、さんざん悩んだ思いがコブになったような感じがして、その思いつきにまた自分で勝手に納得したりもした。しばらくは対症療法と経過観察で、経過によっては取ることになるかもしれない。症状も治療法も人それぞれだから、自分で考えていろいろ天秤にかけて選択しろよということらしい。図書館で子宮筋腫の本を3冊バーっと斜め読みして、とりあえず納得。半年後の検査を忘れずに。

一方、冬のはじまりにはごく身近(歩いて30秒!)なところに赤ちゃんがやってくる予定だ。会うたびに大きくなる彼女のお腹を見ては畏れに似た気持ちとそれを上回る喜びを同時に感じる。産もうが産むまいが女性の体はいろいろ大変だ。これも大変自慢をしても仕方がないけれど、今しみじみと感じている。ホルモンに支配され操られている私たちなのだとつくづく思う。そして大変でもこの体でやっていくより他ないのだけれど、世の男性はさておき、せめて夫たちにはわからないなりにもわかろうと気持ちを傾けてほしいと思う。それも別に深刻じゃなくて、ふーん、そうなんだ、くらいの感じでいいので。あとは自分で決着をつけるから。

 

きみは赤ちゃん

きみは赤ちゃん